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マンドリンの女神に愛された作曲家・武藤理恵さんにインタビュー 【前編】作曲家・武藤理恵とマンドリンの出会い

【前編】作曲家・武藤理恵とマンドリンの出会い

「Paradiso」「月に舞う」「コバルトブルーの奇跡~旅立つ君へ~」など、数々の作品を生み出してきた作曲家・武藤理恵氏の作品のみで構成される初めてのコンサート「オール武藤理恵作品コンサート~マンドリンの女神に愛された作曲家~」が2022年6月5日に開催されます。

 今回、Twitterで募った質問をもとに武藤理恵さんにお話をお聴きしました。これまで、ほぼ曲目解説でのみ武藤理恵さんの曲への思いに触れていた方々には、宝物になることでしょう。(以下敬称略)

●コンサート開催へのお気持ちと、「作曲家・武藤理恵」をつくったものとは・・・

――「オール武藤理恵作品コンサート」の演奏会企画について初めて聞いた時のお気持ちをお聞かせください。

武藤 演奏会企画のお話をいただいたのは、昨年でした。ちょうど還暦を過ぎて、健康面の不安や心身の衰えを感じ、マイナス面が支配している時でしたので、曲がった背筋がピンッと伸びたような気持になりました。もちろん喜びも大きかったです。ただ、「自分の作品が並ぶコンサートというものができるのだろうか」「本当に私の作品でいいのだろうか」といった不安な気持ちもありました。それでも、演奏会の実行委員会の方とのやり取りや、具体的なプログラム、チラシが出来上がっていく過程で、背中を押されている気持ちに変わり「これは素直に受け入れさせていただこう」と思いました。

 特に演奏会のサブタイトル「マンドリンの女神に愛された作曲家」には助けられました。「私は作曲家です」という風に思って今まで生きてきたわけではなく、作曲家になりたいと思って小さいときから努力してきたわけでもありませんし、ひょんなことから曲を作るようになったものですから、負い目のようなものもあったのです。でも、この「マンドリンの女神に愛された作曲家」というサブタイトルを聞いて、「あぁ、マンドリンの女神がいたのだ」「私はマンドリンの女神に見つけていただいて『作曲していいよ』と言われたのだ」と、そんな気持ちにさせられたわけです。

――お話を聞いて、コンサートに向けて、より練習に身が入る気持ちです。ぜひ成功するように、本番まで精一杯がんばりたいと思います。

――さて、ここからは武藤さん自身についてお話を伺おうと思います。まずは、幼少期の頃の音楽環境や性格についてお聞かせください。

武藤 音楽環境については、母が音楽とピアノが好きだったので、胎内にいる時から毎日クラシックのレコードを聴いていました。生まれてからも、毎日のように童謡のレコードや母のピアノを聴いて育ちました。5ヶ月の赤ん坊だった私が、母の膝の上に乗せられてピアノを弾いている写真も残っています。2歳になると、おもちゃのピアノで「ちょうちょう」や「かもめの水兵さん」といった曲のメロディーを弾いたりしていたようです。幼稚園に入ると、友達と歌を歌う際に、先生から「ちょっと代わりにピアノを弾いて」と言われて伴奏を務めたりしていました。

 母の希望でピアノの個人レッスンに通い始めたのは、幼稚園の年長ぐらいからです。レッスンはとても厳しいものでしたが、家でも母から付きっきりの恐ろしい(笑)レッスンを受けていました。

 性格面については、おとなしくて自主性がない子だったと思います。ボーっと何も考えていない時間が多く、空想にふけることが好きな子供でした。ところが、学校ではピアノを弾けるということで何故かしっかり者だと思われ、学級委員や班長を任されたりしました。

 小学校5年生ぐらいになってくると、私も成長して、自分からピアノの練習をするようになり、母の厳しいレッスンが緩みました。その影響かどうかわかりませんが、それからは学校でもひょうきんな性格になりましたね。普通の女の子はそんなことしないでしょうというようなことも、男の子と同じようにふざけてやり、みんなが笑ってくれるのがうれしかったです。

――作曲されたものだけでは知ることのできない、とても貴重なお話でした。

――音楽活動に影響を与えた方や出来事はありますか?

武藤 もちろん影響を受けた人物ということでは、まずは母、そしてピアノの先生がいらっしゃいます。また、具体的な出来事として、二つ思い浮かびます。

 一つは、小学校5年の担任の先生に「ピアノが弾けるなら、うちの合唱団の伴奏をしろ」と言われて、その先生が創設した地元の児童合唱団の専属ピアニストになったことです。合唱団では、普段のピアノのレッスンだけでは触れることのなかった宗教曲やポピュラー曲、世界の民謡など幅広いジャンルの音楽と出会うことができました。コーラスの各パートが織りなすハーモニーの体験などは、今の作・編曲活動に影響を与えていると思います。その担任の先生にも感謝しています。

 もう一つは、大学を卒業した後、二期会のオーディションを受けて、オペラ公演の専属ピアニストとして、7~8年、オペラの伴奏を経験したことです。音楽はもちろんですけれども、それに加えて舞台美術があって、ストーリーがある。オペラは総合芸術ですよね。私の曲について「情景が思い浮かべやすい」とよく言われるのは、オペラでの経験からもきていると思います。

●マンドリンとの出会い・「ひょんなこと」の真相

――マンドリンの曲を作曲されるようになった経緯をお聞かせください。

武藤 大学を卒業してから、楽器店でピアノ講師のアルバイトをしていました。その楽器店の店長から、マンドリン講師がリサイタルで伴奏者を探しているというお話を聞いて、喜んでお受けしたのがマンドリンとの出会いでした。

 マンドリンに関しては、イタリア民謡や日本の演歌などで使われたりしている楽器だという認識があるくらいでした。初めてマンドリンの曲をピアノ伴奏した時は、正直なところ音質が合わないなと思ってしまいました。ピアノは音量が大きいので、何度やってもマンドリン奏者から「もう少し音量を下げてください」と言われましたね(笑)。その後、マンドリンに合ったピアノ伴奏の音質や音量を自分なりに会得するには、数年かかりました。

 そして、「マンドリンのデュオリサイタルをするので、何か編曲してみませんか」と言われて書いたのが、「ウィーンわが夢の街」です。2本のマンドリンとピアノで弾けるように編曲しました。25歳ぐらいの頃です。それをきっかけに色々な編曲をするようになりました。ちなみに、そのマンドリンの先生というのが、今回のコンサートで指揮をする青山忠氏です。

 作曲を始めたのは、それから20年後、40代半ばになってからですね。レヴール・マンドリン・アンサンブルから、「第5回の記念演奏会に向けて、15分くらいのオリジナル曲を作りませんか。でも、無理なようでしたら何か既存の曲を大型に編曲するという形でも結構です」とご依頼をいただきました。音大のピアノ科を出ているといっても、1回も作曲をしたことのない私……。普通ならお断りするところでしょうけれど、「無理なら編曲物でも」と逃げ道を作っていただいたことで、逆に「やるしかない」と思って作曲してしまいました(笑)。その時の曲が「物語は時空を超えて」になります。

 この依頼をしてくださった方には本当に感謝をしていて、これがなかったら作曲活動をしていなかったかもしれません。

――伴奏や編曲、作曲を長年されて、マンドリンという楽器や演奏に対して特別な思いはありますか?

武藤 私にとって、マンドリンはすごく「歌う楽器」です。歌と非常にマッチするように思います。例えばオペラのアリアやカンツォーネのように歌いたくなったメロディーが、マンドリンの音にぴったり合う。歌とマンドリンの相性がいいように感じますね。やはりマンドリンの女神が後ろにいるからでしょうか(笑)。私にとって癒しの楽器でもあります。

つづく